手水盤寄進

 断っても断っても、子分は日増しに増え天明元年には二十人近くなった。源五郎はこれらの
子分が堕落しないように気を遣い、宇都宮大明神の井戸掘りとか、参道の敷石工事などの奉
仕を引き受け、連日交替で出勤させた。かくて源五郎は四十五歳の頃には、目明役と親分の
二足のわらじをはく相当の顔役になっていた。
 そのため子分の中には、虎の威をかる狐のような者もないではなかった。天明二年(1782
年)の春、宇都宮城下、釈迦堂町の東勝寺跡で相撲興行が催された時のことである。子分衆
が十手の威光を嵩に入ろうとしたら、木戸番が「源五郎だか、半五郎だかしんねぇが、顔札で
は入れねぇ。金さえ持ってきたら牛でも馬でも入れてやらぁー。この田舎もんが」と言ってしまっ
た。「田舎もん」という言葉に怒った子分たちは「なにっ、その言葉を忘れるなよっー」と、その
半時ほど後には、それぞれ何頭もの牛と馬を引きつれていた。
「金を持ってきたぜ。さあ、約束だ。牛も馬も入れてくんねぇ」
 まっ青になった木戸番は「つい口が滑って。勘弁してくだせぇ」と土下座して平謝り。
 組に返って、誇らしげに話す子分の話を聞いた源五郎は怒って、子分たちに酒樽を担がして
興業主を訪れて身内の者の非を謝した。このことがきっかけとなって、興業主に惚れられ兄弟
分となって江戸の力士たちとも固い絆ができたのである。

4.宇都宮大明神の境内に手水盤を寄進

                 

      「元願主・枝源五郎」と記されている宇都宮二荒山神社境内の水盤

 天明五年の秋、源五郎は江戸に出て男を売り出したが、郷土を忘れぬ気持ちから宇都宮大
明神の境内に寄進する手水盤を江戸神田橋の鋳物師に注文した。出来上がった手水盤を馬
車に積んで千住大橋に差しかかったところ、番所の役人に制止された。
「橋が老朽している。車を通すことまかりられぬ」
「人なら、通ってもよろしいですか?」
「人……? よろしい」
 源五郎は「確かですね」と念を押して、腰と懐中から矢立と白紙を出してスラスラと走り書きし
て、「これを両国の回向院へ持って行け」と子分に命じた。回向院では関取連中の土俵入りで
盛況をきわめていたが開けてみると、「源五郎の急場を、なにとぞ救っていただきたい」と書い
てある。数十人の力士が、「すわっ、何事!」と大橋に駆けつけた。
 源五郎はうれし涙を抑えながら「馬車ではこの橋を通さぬと言うので、皆さんに担いで渡って
貰おうと、お願いした次第です」
 源五郎の言葉も終わらぬうちに、力士たちは頭上高く水盤を持ち上げて「ワッショイ、ワッショ
イ」と掛け声をあげて渡ってしまった。別れに際して力士たちは「これで兄弟分の固めも、ます
ます深くなりました。またご用があればいつなりとご連絡ください」
 この水盤は明治戊辰の役の兵火で大砲に当たり変形したが、鹿沼で鋳造替えをして現在宇
都宮二荒山神社境内に置かれ、龍の口から水がとうとうと流れ落ちている。

 赤門建立                                                江戸一番の親分