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二荒山神社の鳥居。長い階段を上がった境内に手水盤がある。
5.江戸一番の大親分
源五郎はとても機知に富んでいた。下記は有名な逸話である。
江戸に出た源五郎は、当時江戸で売り出し中の金看板の甚九郎と激しい縄張り争いをして
いた。いよいよ雌雄を決する血の争いになろうとした前夜、源五郎は使者を送って
「現在の力量は公平に見てほぼ互角。戦ったら大流血戦になって、共倒れになるのは必定。
それは虎視眈々と江戸一番の親分を狙っている輩を喜ばせるだけのこと。そんなバカはやめ て、なにか面白い競争をして、勝った方を兄貴分として兄弟分の誓いを立てたいが、いか が?」
と申し入れた。
甚九郎からは早速「承知した」という返事が返ってきた。二人は、翌早朝、両国橋の上で二人
だけで相まみえた。甚九郎は機先を制するつもりで問いかけた。
「さて、なにをして決めようか?」
「どうだねえ、甚九郎親分。二人してここで糞をしようではないか」
「糞を……!」
源五郎の口から飛び出したあまりにも思いがけぬ言葉に、甚九郎は面食らった。
「糞をしてどうするのかね」
源五郎はにやりとして言った。
「ここは江戸でも名代の人通りの多い所だ。橋のまん中に糞があったのでは、そのまま捨てて
は置くまい。先に片づけられた方を兄貴分とする。これで、どうかね?」
「ウワッ、ハ、ハ、ハ、ハッ。いや、それは面白い。よし、やろう」
二人はクルリと尻を出して、間もなく二つの山を築いた。互いに呵々大笑しつつ橋のたもとに
たたずんでいると、やがて橋番の非人がきて糞を片付けはじめたが、先に手をつけたのが源 五郎のものだった。それもそのはずで、源五郎は自分の糞の上に小判を一枚乗せていたので ある。それ以来、源五郎は金看板を弟分として江戸一番の大親分になったが、宇都宮には帰 らず文化三年七月、江戸で死去した。
寛政六年江戸で発行された「田舎分限出世相撲番付」には、世話人として枝源五郎の名が
大きく記されており、文化元年の中仙道人馬駄賃帳にも才領枝源五郎の名が見える。各方面 に活躍していたことが資料によっても窺える。 ![]() |