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2.目明役になる
その翌年の宝暦六年(1756年)春、源五郎は町年寄り衆に見込まれて、目明役を勤めるこ
とになった。同時に親の家から独立して、杉原町の座頭橋付近に一戸を構えた。十手取縄を 預かっても源五郎の任侠と熱血はますます盛んで、常時裏長屋などを巡回し困っている人に は金や物を、弱い立場の人には救助の手を差しのべて庶民から慕われた。
この他、道路の補修や下水道の修繕にも気を配り、明和五年(1768年)には雨が降ると田
圃の様に泥だらけになって歩くこともできなくなった釈迦堂町(現相生町)の坂道を工事し、敷 石に替えた。
40歳になると源五郎は、慈光寺境内に自分の墓を建立した。
自然石の正面に梵字3字を刻し、裏面には
「河内郡宇都宮産俗名枝源五郎四十歳。映誉徹道居士、安永四乙未年十月十五日、当領
勤、目明役逆修造立」と記した。 ![]()
高さが2.4mもある源五郎の巨大な墓。
墓は県の重要文化財になっていて、その左隣に源五郎の子どもと孫夫婦を祀ったちょっと小
さめの墓。さらにその左にいずれ私が眠ることになる枝家の墓が並んでいる。
3.赤門建立
源五郎が十代半ばから三十代は、宇都宮を中心とする百姓一揆や助郷一揆が起こり、大洪
水にもしばしば襲われ、安永二年三月の大火事で宇都宮四十一ヶ町が全焼して、多くの焼死 者がでた。世のため人のために生命を捨てて尽力した百姓一揆の首謀者が、葬式も出せず、 墓石も建立できないでいる現実に憐れを感じた源五郎は、安永四年(1775年)塙田村・慈光 寺の参道入口に仁王門(山門)建立の発願をなした。火災の犠牲者や災死者の冥福を祈り、 将来への平和を念じて人々の心に希望の灯火を点じようとしたのである。
その手段として、源五郎は万人講の組織に着手した。趣旨は、宗旨のいかんを問わず、仁
王門建立のため毎日一文ずつ寄進する人を講員とし、宇都宮城下の全住民を対象に呼びか けたのである。これを聞いた庶民たちは、日頃の源五郎の義侠と温情に敬服していたことか ら、われもわれもと加盟し、賛同者はまたたく間に二千余人に達した。当時の宇都宮の人口は 約8300人、2400所帯だったので大半の人が同意したことになる。 ![]() |