源五郎とは 

 私の七代前の先祖 枝 源五郎が誕生したのは今から275年前で、親戚筋ではいまだに
神格化されている。
 「宇都宮史跡めぐり」 にはこう記されている。
〈源五郎は宇都宮城下の旅篭 松屋に生まれた。幼い頃から性格は剛直で仁義に厚く、困っ
ている旅人は無料で旅篭に泊めていた。そんな性格を見込まれて宝暦年間(1751〜1764)
目明かしになる。人望も厚かったらしく、源五郎に憧れてくる若者も多くやがて宇都宮の大親分
になるが、さらに江戸に出て金看板の甚九郎を弟分に抱えて、江戸一番の大親分になった。
宇都宮には戻らず江戸で72歳で没した。寺、逝去年月日は不明 〉

 1. 枝 源五郎 

  元文4年 1735年 生まれる
  宝暦5年4月 1755年 20歳   日光社参の大名行列に殴り込み
  安永4年 1775年  40歳
         自然石の表面に梵字 裏面“映誉徹道居士 当領勤目明役逆修造立”
  安永7年 1778年 赤門建立 
   天明5年 1785年 宇都宮大明神(現 宇都宮二荒山神社)の境内に手水盤を寄進。
           今でも宇都宮二荒山神社に置かれている。  
         1785年 江戸に出る。金看板甚九郎を弟分として江戸一番の大親分になる。
  寛政6年 1795年 江戸で発行された「田舎分限出世相撲番付」に枝源五郎の名が中央
        真下に大きく記されている。
   文化3年 1807年7月 宇都宮に帰らず江戸で死去。72歳。
 
  参考資料  栃木新聞社 「物語・栃木県史」  文化新報社 「宇都宮史跡めぐり」
          下野新聞   「社寺めぐり」  その他 新聞・雑誌・インターネット

 来春、一番年長の孫が小学校に入学するのをきっかけに、今までやろうやろうと思いながら
つい先延ばしにしていた源五郎(元文4年1735〜文化3年1807年)の数多くの資料を整理
して、息子や孫たちにまとまったものを残してやりたく 「一族の誇り 枝源五郎」 を作成した。

 私が小さい頃から親・叔父・伯母・叔母から聞いた源五郎は、
  1.貧しき者と弱き者の味方
  2.度胸があって、機転が利いた
  3.江戸一番の大親分
  4.侠客であるとともに十手持ち
 等々でした。

 法事などで集まったときは、耳にタコができるほど、源五郎のことを聞かされましたし、宇都
宮に住んでいた伯母からは第2次世界大戦前、赤紙を受け取った男たちは源五郎のお墓にお
参りしてから戦争に行ったとか、正月の出初め式は源五郎の墓の前で行ったなどの話で持ち
きりでした。
 父、叔父、伯母たちが育った頃、私の曾祖父は今のJR宇都宮駅あたりに広大な屋敷を構え
ていたそうで、曾祖父母亡き後、祖父(入り婿)が小豆相場に手を出して、スッカラカンになって
しまったときの惨状もよく聞きました。
 伯母は九十歳まで長生きしたが、臨終間際に、脈を取ろうとした医者を「無礼者。触るでな
い」と一喝したそうです。主治医からはどういう方だったんですか、ときかれたので育った環境
を話したら、「なるほど」と苦笑いしてました。伯母は「今まで別荘だった所が、次々に他人のも
のになってしまったんだ。あの時は、淋しくて悔しくて、声をあげて泣いてしまったよ」とよく語っ
ていました。
 源五郎を“神様あつかい”している人も赤門の近くに何人もいて、源五郎の墓守を自認してい
る遠縁の老婆に高校一年生の時、眼鏡をしていて怒られました。
「枝家の跡継ぎが目の病気にかかって……源五郎に何といって詫びを入れるつもりか!」

 一族の誇り 枝 源五郎                   大名行列への殴り込み