ウィーン

 昼食後、バスで約200km離れたスロバキアの古都プラチスラバへ向かった。片側2車線の
高速道路で信号機はなく、数kmおきぐらいに左右からの高速と交差している。左側に低い丘
が続き、畑と草原が見渡す限り広がっていた。途中から雪になった。東欧の街は似ているの
で、スロバキアに入っても、違う国に来たとは思えなかったが、街は古く、建物も質素で、ブダ
ペストよりもさらに中世が息づいていると思った。

 ウイーン
 5世紀から15世紀までの中世ヨーロッパにはまだ現在でいう国はなく、小さな土地を巡って
王侯たちの間で血なまぐさい抗争が続いていた。そんな中で周囲を斬り従えたハプスブルグ家
が13世紀から20世紀までの約700年間、ヨーロッパに君臨し続けることとなった。
 現在のオーストリアは日本の22%の国土しかないが、「世の帝国では太陽が没することはな
い」とまで豪語したカール5世の時代(16世紀前半)は、英仏両国とローマ教皇庁領などを除
いて、ヨーロッパのほとんどを支配していたのである。
 ハプスブルグ家がここまで大きくなったのは、武力ではなく結婚政策によってだった。スペイ
ン王女と結婚した嫡子が後にスペイン王となり、兄妹をハンガリーの王子と王女との間に二重
結婚させたのが実って、ハンガリーとボヘミヤの王冠が転がり込んできたのである。
 ハプスブルグ家の中でも有名なのが国母と慕われたマリア・テレジア女帝である。マリア・テ
レジアは激務に忙殺されながらも、せっせと子宝づくりに励み、16人の子をもうける。フランス
のルイ16世に嫁がせた末娘のマリー・アントワネットは、1793年、フランス革命で断頭台の
露と消えたのである。
 後年、フランス皇帝となったナポレオンはハプスブルグ家の皇女を妃にして “箔” をつけよ
うと、マリー・ルイーズと結婚して子をもうける。これがナポレオン2世である。

  左下:マリア・テレジアが完成させたシェーンブルン宮殿
  右下:オイゲン公の夏の離宮ベルヴェデーレ宮殿で家内と















  
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